DUM-DUM PARTY'09 ニイタカヤマノボレ 一二〇八@SHIBUYA-AX

相対性理論中原昌也さん目当てでライブに。


相対性理論は音というよりもバンドのスタンスというか、文脈がいいと思った。
でもなにより「Buffalo Daughter」に「持ってかれたなぁ」というのが感想。


Hair Stylistics a.k.a. 中原昌也」と「group_inou」は見れず。
バイトはやく抜ければよかった…。





相対性理論のセットリストがあったので転載。

1.小学館
2.百年戦争
3.地獄先生
4.さわやか会社員
5.人工衛星
6.気になるあの子
7.四角革命
8.シンデレラ
9.テレ東
10.品川ナンバー

Loser's Palade■http://d.hatena.ne.jp/seppaku/20091210/riron


『ハイファイ新書』以降の、ちょっとアジアっぽい音が効いてる曲が多かった。演奏は、リズムがしっかりしていて、ボーカルもきちんと歌い上げるスタンダードなものだった気がする。ギターはちょっと危うくて心配になったけど。

でもたぶん、そういう「スキを見せない」演出だったのかもなー、と思わせるところが、相対性理論のすごいところだと思う。文脈を読み込ませようとしているのか、していないのか。天然なのか人工なのか、その辺の境界を曖昧にしているところがいい。



曲間のMCで、やくしまるえつこがしゃべったのは3言。
「奥様はマジョリティー
「裏だけど、表といえなくも、ない」
「お持ち帰り」
(登場時に「相対性理論です」、終わりに「またね」。計5言か。)



こういう、「どうとでも取れる言葉」をぽんっと投げるところが、軽い精神分析の手法と似ていて面白い。




岩をすっと差し出して、「この中にはある生物の化石が入っています」とやくしまるえつこが言う。言われたこちらは、「そう言うなら…」と発掘を始め、最終的にアンモナイトの化石を見つける。しかし、隣の人を見てみると、同じ岩をもらったはずなのに、三葉虫の化石を発掘している。また別の人は、恐竜の卵、さらに別の人は始祖鳥の骨、と、それぞれが別々に違う。その時、「どうして?」と思うと同時に想像できるのは、「その岩は、実は何の化石も入っていない、ただの岩なのではないか。」ということだ。


つまり、受け取った我々は、その岩から化石を発掘しているフリをして、自分でも気付かないうちに勝手に、岩をアンモナイトなり三葉虫なりの化石に見えるように彫刻していたのである。そうしてできた化石は、作者の症候であり無意識の表れだ。

しかし、その構造に気付いて「やくしまるさん!ホントは何も入ってなかったんじゃないですか?」と言ったところで、「そういう考えが浮かぶ日は、いつも雨」とかまたわけの分からない言葉を返され、次の岩を渡されるのである。以下無限ループ。





これがすなわち精神分析で言うところの「転移」であり、一般的な意味での「虜」である。「分かっちゃいるけどやめられない」状態、それに持ち込むのが、やくしまるえつこさんは上手い。
『スマトラ警備隊』相対性理論×『傘がない』井上陽水
で書いた文章も、ある意味で僕の症候である。




そういう「粘土のような言葉」を届けるのが上手いから相対性理論は売れた(?)んだろうし、文脈を読み込もう読み込もうとする人たちにとっては格好の材料を提供してくれる、絶妙なバンドである。そういう意味で、詩、散文詩に近い存在。


だからライブもそうした「読み込み可能な余地」を残すために、「素」を見せてはいけない。そういうこだわりをもってやっているんじゃなかろうか。さっき書いた「スキがない」というのも「わざとスキを作る」という点において「スキがない」というテクニックだし、そういう意味では安室奈美恵ユーミンのライブにおける「スキのなさ」と似ている。だから別の言い方をするとかなり「演劇的」だと思う。




でももう少し書くと、やっぱりそれは、やくしまるえつこが「かわいい」からなんじゃないかとも、思う。フロイトも、「強いナルシシズムに耐えられるのは『美女』である」と「ナルシシズム入門」の中で言っている。フロイト先生が言うんだから、間違いない。


そうやって演劇的に歌って演出されているスキのスキというか、素を読み込めたのが彼女の手の動きだった。息切れせず、客のテンションや演奏の盛り上がりに影響されることもなく、「マイペースでやっていますよ」ということを必死で表現している中、ちょっとだけその無意識の盛り上がりが、手に出ていたのだ。


なかなか言葉では説明しにくいので絵で説明すると、








デフォルトはこれ。

すっと背筋を伸ばして立って、足や体でリズムを刻むことなく、ただただ人形のように歌う。


ちょっと茶化したくなるような姿が、声と合っていていい。








そして、少しずつテンションが上がってくると、

ゆっくりと片手を腰に当てる。この手つきがなんともいえない。









そして、テンションが最高潮に達すると、

もう片方の手をふっと腰へ。

















この、何気ない手の動きすら文脈を読み込ませるというのが、美女の力です。




大事なことなんで二回言います。
美女の力です。





そういう「美女の力」や彼女の特徴的な「声」、それにベーシストで作詞作曲者の真部脩一が作り出す「語感」、場合によっては「不安定なギター」っていうものも含めて、相対性理論が作り出す「文脈」が非常に良く出来ているな、と思ったステージだった。




それに比べて「音」だけで「文脈」を作ろうとしていたのが「Buffalo Daughter」。音脈、と言うのかなんというか*1、伝わってくるものと音の力がとにかく圧巻だった。上手く述べる言葉が手持ちにない。


ドラムが…とかシンセが…とかは書けても、結局それがどうなって、どう作用したかを言葉で書けないのがもどかしい。「持ってかれちゃったなぁ」というのはそういうことなのかもしれない。

中原さんの完全な文脈破壊も見たかった。そうすれば感想も変わったかもしれないなぁ。




いいライブでした。

*1:人が言葉を前提にコミュニケーションしている時点で「文脈」以外の存在を「blog」では書けないわけだが…。