「ブロガーの死」のアーキテクチャ的帰結

今年を振り返るTV番組や雑誌のコラム、インターネットの記事を読むにつけ、2009年は特に訃報が多かったように思う。

そんな著名人の死はもとより、同じアルバイトをしていた人の死と、大学の恩師の死があって、自分の死後や死生観について考えさせられることが多かった。
合掌。




その中で考えたのは、ブロガーやSNSメンバーの死後について。
現実世界では死んでしまった人の、Web上の記録はどうなるのか、という問題だ。


違和感の発端はイマダくんの「ブロガーの「死」について」だったが、ここにあるように、

ブロガーはどうか。あるブロガーが、例えば今日8月21日に突然、何の前触れもなくポックリ死んだとする。

もちろんネットと関係なく回るその人個人の生活世界では、彼は家族、知人に惜しまれながら葬送されるのだろう。そうやってその人の死は、社会に登録されるのだ。

しかしその人のブログは……最終の更新20日で止まったままのはずなのだ。ページが無くなるでもない、もちろん更新もされない。ただ、それで終わりだ。実は、画面のこっち側で実際に文章を書いている「人間」の生き死にと、ブログ=アカウントというのは何ら関連無く存続している。


インターネットに担保されるある種の「匿名性」が、その作品や文章、動画やblog記事のアカウントを、いつまでも「更新されるかもしれないもの」として保ち続ける。その姿は、(一見)不老不死のようで、不気味である、ということである。

ブロガーが活字の作家とことなるのは、「中の人」という表現が臭わしているとおり、それがある種のキャラとして認知されているふしがあるところだ。伊藤剛の論を待たずとも、キャラは老いないし死なない。それは文体が不老不死なところと似ている。


しかし、現実を見てみると「このブロガー、死んでるかもっ!」という疑いまではいかずとも、「死をにおわせる状態」のblogには、ふと出会うことがある。特にそのにおいを際立たせるのが、スパムコメントだ。猥雑な書き込みが10件20件と続いているコメント欄を見ると、廃屋、廃墟を見たときのような「もわっ」とした不気味さが漂ってくる。


そうすると、僕らは厳密にその著者の生死を問うことなく、勝手に「死んだもの」としてそのサイトや書き込みを扱う。「5年更新がなければ」だとか「スパムコメントが100件を超えたら」だとか、そういった明確な基準があるわけではないにせよ、なんとなく「終わったな」と判断するのである。*1

同様に、新聞も取らずTVも見ず、ラジオも雑誌もあらゆるメディアを絶った人でも、マイケル・ジャクソンが死んだことはおそらく「風の噂」で耳にするだろう。


そうした「なんとなく終わったと分かる」ことと、「風の噂」との間に共通する「曖昧さ」「自然さ」「本当かどうか分からないけれども、まぁそうなんだろうと判断すること」が、インターネットという厳密な言語で作り上げられている空間でさえ登場してくるということが、現在のアーキテクチャ論壇(あるのか?)で語られている。




今回扱っているインターネット上の「死」についても、そうしたアーキテクチャ的な帰結がもたらされるのではないだろうか。


必ずしも著者が「死んでいる」かどうかは分からないけれども、その曖昧さをそのままに、「死んだもの」としてただ忘却していくこと、それがこの先のインターネットで行われていく文化的な営みではないかと思う。そういう意味で、確かにインターネットはもう終わったのかもしれない。


この先はGoogleが非文化的なものものを駆逐し、究極的な知のアーカイブが作られるだろう。そこに入れなかったからといって嘆くことはないし、結局生きていくのは人である。という極めてPTA的な帰結。



全ての知識が選別されアーカイブされる、という夢のような物語がインターネットに対して語られていたし、技術的にも記録メディアの発達によって地球上のあらゆる出来事は保存可能であるとまで言われた。しかし、やっぱりインターネットの中でも、残るものと残らないものが、選別されるのだ。それって、現実の世界で伝統や風習や文化が失われるのと同じである。


人が関わっている時点で、厳密さは失われてしまうし、逆に人が関わらないものは、人には必要がないし関係の無いものになる。


たぶんこのblogもはてなのサービスを使って本にでもしない限り、残らないのではないかとぼんやり感じる。でも本にしたところで棺桶で燃やされればそれまでだし、子や孫がいたとしてもたぶん処分するだろう。




インターネットは、我々が人の生死を判断するように、(ネット上の)情報の生死を判断できるようになったように思う。そういう意味で、完成したと言っても問題ないかもしれない。


ネットが終わった終わったと何度も言うのは、終わって欲しいからではなくて、逆に発展して現実に追いついたと思うからだ。
そして、現実はあらゆる意味でもう終わっている。

*1:たとえbotで投稿が続いていようとも、終わったと判断することは容易だ。