治療と洗脳の間

「恐怖の記憶」消す仕組み解明…PTSD治療にも


 脳が短期の記憶をとどめる部分では、神経細胞を次々に作り出すことで、恐怖などの記憶を消し去っていることを、富山大学の井ノ口馨教授らが動物実験で突き止めた。

 心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの治療につながる成果だ。13日発行の米科学誌「セル」に発表する。



 記憶は、脳の「海馬」と呼ばれる部分に保存された後、整理され、マウスは1か月、人間は半年〜3年で大脳皮質へ移り、長期の記憶になるとわかっているが、詳しい仕組みは不明だった。



 井ノ口教授らは、海馬で神経細胞の新生が盛んなマウスと、そうでないマウスを実験に用い、恐怖を感じる程度の電気ショックを加え、記憶を調べた。その結果、細胞新生が少ないと恐怖の記憶が海馬にとどまり、細胞新生が盛んだと、移りやすいことがわかった。



 恐怖などの記憶がいつまでも海馬にとどまっていると、何かにつけて思い出しやすく、PTSDの症状が長引くと考えられる。

 井ノ口教授は「海馬の神経新生を活発にする薬剤を開発すればPTSDの治療に役立つ」と話している。


(2009年11月13日08時07分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20091113-OYT1T00035.htm

人間の記憶を記録した細胞ごと、新陳代謝させてしまえばいい、という方法。病気でも何でも、早いうちに対処した方がいいというのはよく聞くので、トラウマが形成される前により早く、「黒歴史」細胞を押し出してしまえばいいということか。


「恐怖などの記憶を消し去っていること」って、そもそも「恐怖など」って何なのよ?とも思うし、消し去るってのが倫理的にどうかという問題もあるんじゃないかと気にもなるが、確かに、突発的な事件や災害に巻き込まれた人の治療には有効かもしれない。でも、そんな上手いこと海馬を操れるのかなぁ、疑問。




それよりは、iPS細胞で脳の一部分を再生するという方が現実的な気がする。


虐待や犯罪被害の記憶に苦しむ知人は、「脳ミソを入れ替えたい」という。 覚えていたって、何の価値もない記憶なのだから、脳をまっさらにして、健康そのものの人格でやり直したい。――臓器を再生するiPS細胞の話を聞きながら、「脳髄は?」と思わずにいられなかった*3。 たいていの記憶には、価値なんかない。 そしてそもそも、この現実は何も “覚えて” いない。


Freezing Point「考えてしまっていたこと」
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20091103


だがここで問われてくるのが、倫理の問題。記憶を操作してしまうのは良いことなのか?仮に記憶がなくなった後、何か問題が起きたら、責任は誰にあって(まぁ当事者だろうが)、どう責任をとるのか?「記憶を消された人」と、周囲の人間のコミュニケーションはいびつなものにならないだろうか?『サトラレ』のように、半径1km以内の人へ警戒を促すために、対策委員会でも発足するのだろうか。「記憶を消した人が今、渋谷を歩いています!センター街の人は特に注意してくださーい!」



結局、脳いじりの話になるとそうしたSFの域をなかなか出られない。
でも一度タガが外れれば、すっと普及してしまいそうな気もする。




よく、サイボーグやロボットが登場する物語で、「電池が切れた」「死んで(壊れて)しまった」「再起動した」などの理由で、・そのキャラクターの「記憶」が全く無くなってしまう、・無くさないで済む方法を模索→ハッピーorバッドエンド、というのがある。「記憶が消えるなら、再起動する意味は無い」だとか、「消えたと思っていたはずの記憶が、奇跡的に甦った。愛の力で。」みたいな(ホントにあるかは知らないが)美談として、「ロボットの記憶」を取り扱う物語はドラマチックに終わる。


しかしこれが人間だったら。記憶喪失の人間の記憶が「戻らないまま」、完結する物語は今まであっただろうか!?(あるかも)(物語の最後の最後で頭を打って記憶喪失になって「とうとう○○の記憶が戻ることはありませんでした。おしまい。」というものはあるかもしれないけどそれはちょっと違う。)


「記憶喪失」という設定が意味を持つのは、それが戻るかもしれない、からで、もし戻ることなく自己実現をして終わる話なら、最初からその設定は不要、少なくとも記憶喪失である必要はない。
例えばそれを「骨折」という身体的な欠損に置き換えて考えてみると、「骨折」という設定が意味を持つのは、それが治るかもしれない、からで、もし治ることなく自己実現をして終わる話なら、その設定は不要かつ「骨折」の必要性は無いと言える。

と、極論をしたが、ここに違和感があるのはお気づきの通り。
「記憶喪失」や「骨折」と、折り合いをつけて物語を進める、という選択肢は、ある。
単純なところでいくと『リアル』(井上雄彦)がそうだと思う。




何が言いたいかというと、記憶を消し去った人とも、折り合いをつけて上手くやっていく方法はあって、そしてそれは物語的展開(というよりも単純な時間の流れ)が解決してくれるんじゃないか?ということだ。最初は「この人、記憶を消したんでしょ…、まだ心のどこかにかけらが残っていて、急に思い出して暴れたりしないかしら…」と思うかもしれないが、結局そういうことがあるのはファンタジーの中だけなんじゃないかと思うのである。サトラレ同様、問われるのは周りの資質で、「お前は過去に○○してたんだ!」と言う奴がいたとしても、脳に痕跡もないのであれば、苦しむ要素が無い。まさに生まれ変わりである。だから、iPS細胞での生まれ変わりはどんどんやっていくべきである。



と思ったが、じゃあその生まれ変わりを認めるかどうかの基準は…と、また倫理の問題にぶつかった。





というかそもそも、人間全員がある意味で「記憶喪失」みたいなもので、事実幼児期の記憶はほとんどない。
だからこそ、身に覚えが無くても、「お前は昔、○○だったんだ!」と言われて妄信してしまう場合がある。

だから、結局生まれ変わったところで、トラウマをトラウマとして捉えるのは主体の問題だから、
脳髄を変えてもダメな場合があることは容易に想像できてしまった。

となると、やっぱり人間は環境に影響される、と言わざるを得ないよなぁ。