感情のアウトソーシング「リーダー's ハウトゥ Book」

テレビ朝日の深夜番組が大幅に改編された。4年見続けた「爆笑問題の検索ちゃん」も終わってしまい、「正直しんどい」など比較的長寿だった番組も次々と最終回を迎えた。


そんなテレ朝深夜の中でもいい位置につけていた(と個人的に思う)「リーダー's ハウトゥ Book」について、記録的な意味も込めて書いておきたい。いつか書こうとしていたら、ごらんの有様だよ



公式
http://www.tv-asahi.co.jp/j-site/index_top.html





リーダーズは、

1、OP 本日のテーマ紹介(「合コンでお持ち帰りする秘訣!」など)

2、それを実践するための再現VTR

3、スタジオのメンバーのリアクション
 (TOKIO城島、大木アナ、芸人、+時々グラビアアイドル/女優)

4、「2」「3」の繰り返し

5、その回のHow toを番組HP「ジョーシマサイト」にアップするか、城島が判断。

というのが主な流れ。扱うテーマが幅広く、再現VTRも面白いため、「ないない(笑)」と思いつつもついつい引き込まれてしまうことが多かった。


初期こそ、


無人島から生きて帰る方法」
「あの夢のようなペットを家で飼う方法」
「サービスエリアを使いこなす方法」


などと、きっちりした「How to」番組だったのだが、
途中からは、


「下心まる出しでゴルフを始める方法」
「ホカホカごはんで彼女まで熱くしちゃう方法」
裁判員で恋までさばいちゃう方法」


と恋愛ネタに回収されていったところも笑えた。



そうやってキャッチーなタイトルと共に、「2」のVTRをスタッフがあえてツッコミどころ満載で作り、スタジオメンバーがワイプでリアクション、スタジオに戻ってから意見交換&正式なツッコミを行う。この二者と、視聴者である僕らを合わせた三層関係が、この番組の肝だった。





それをあえて図式にすると、こうなる。

[VTR] ネタ
[スタジオ] リアクション(笑う、怒る、突っ込む)
[視聴者] 何もしない(癒されたり、他の事を考えたり)


この三層はリーダーズに限ったことではなく、様々な番組でもよく目にする関係だ。
1層目[VTR]を観て、視聴者が取るであろうリアクションを、2層目の[スタジオ]のタレントが肩代わりする。
すると3層目の[視聴者]は、なーんにもしていないのに笑った気になったり怒った気になったりできる。エネルギーを使わずに、感情を放出してストレス発散できるのだ。


テレビはそうした癒しの追求をずっと続けてきた。





テレビ初期はおそらく、

[VTR]or[スタジオ] ネタ
[視聴者] リアクション(笑う、怒る、突っ込む)


のように、視聴者は見たまま聞いたまま、単純にテレビに対峙していたのではないかと思う。
家族で見ているお茶の間で、父親がテレビの司会者に突っ込んだり、妹がVTRを見て爆笑したりする。


今、主流の番組の多くは、そこから少しずれた、

[VTR]ネタ
[スタジオ]リアクション & ネタ
[視聴者]         リアクション


だろう。「世界世界ふしぎ発見!」でも、「踊るさんま御殿」でも、確かにVTRは面白いが、それだけ完結することはない。それを楽しむこととは別に、トークを始めスタジオのタレント自体を楽しむ場面もきちんとある。





テレビの与えてくれる癒しは、前述した「なーんにも考えずにいられる」という状態によるものじゃないかと思う。そして、それを突き詰めると、「見ていてリアクションすらしなくていい番組」、というのが究極的に癒される番組ということになる。そんな視聴者のリアクションを肩代わりする、究極の「感情のアウトソーシング」を、「リーダー's ハウトゥ Book」は引き受けてくれていたのである。


その証拠に、リーダーズのスタジオの掛け合いは全くと言っていいほど頭に残らない。
ジャニーズと女子アナとお笑い芸人が出てこれである。
まったくもってすごい。





ということを考えた背景に、ジジェクの「相互受動性(interpassivity)」という概念がある。「相互能動的(interactive)」インタラクティブという考え方に対応する、逆の相互関係が増えているんじゃないか、という論だ。


最新の電子メディアによってテクストあるいは芸術作品の受動的消費は終わったとよく言われる。人びとはもはやたんにスクリーンを眺めているだけでなく、積極的に参加し、スクリーンと対話する。(略)。


この新しいメディアの民主主義的潜在力を礼賛する人びとはたいてい、まさしくそうした特徴に注目している――サイバースペースにおいては、人びとは、他人が演じる見世物をただ観ている受動的観客の役割を脱ぎ捨て、能動的に対象に見世物に参加するだけでなく、見世物のルールを決めることにも参加するのだ、と。


ラカンはこう読め!』p50

ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!


Blog、mixi、地デジ、ニコニコ動画など、そうした相互「能動性」へと進んだ分と同じだけ、相互「受動性(interpassivity)」の方向にも、進んでいるんじゃないか、とジジェクは言う。


そうした双方向性の裏返しが相互受動性である。(たんに受動的にショーを観ている代わりに)能動的に対象に働きかけるという状況を裏返せば、次のような状況が生まれる。

すなわち、対象そのものが私から私自身の受動性を奪い取り、その結果、対象そのものが私の代わりにショーを楽しみ、楽しむという義務を肩代わりしてくれる。

(同上)


以下はジジェクが挙げる具体例。


・お葬式の「泣き女」
(親族の代わりに泣いてくれる。親族は遺産分与などに時間を割ける。)


チベットの「マニ車
(経典を結んで回す風車のようなもの。代わりに祈ってくれる。)


お笑い番組に足される笑い声
(代わりに笑ってくれる。視聴者は疲れが取れる。)


・ビデオデッキ(録画すること)
(代わりに映画やアニメを観てくれる。いちいち再生して観なくても、録画されているだけで深く癒される。)


前二つは特に芸術・消費とは関係がないが、後半二つは身近なものとして実感がある。
グルメ番組を見て「俺も食いてぇ」と思っても、直後にスタジオでタレントが美味しい美味しいと食べていたりしたら、「もういいや」となったり、旅番組や「世界の車窓から」を見たらもう旅をした気になったりすることは、よくあるだろう。





テレビが大衆娯楽というものを目指している以上、多くの人に求められているものを提供しなければいけない時代はまだまだ続くわけで、多くの人が「疲れて」いる以上、「癒し」が至上目標になって、結果、視聴者がなーんにもしなくて済む番組=リーダーズのような感情のアウトソーシング番組がたくさん生まれている現状は仕方がない。


「娯楽=癒し」という簡単な図式になっているのはちょっとまずいと思うが(テレビに怒ったり突っ込んだりすること=エネルギーを使うことが娯楽になっている人もいるはず)、なかなかこの波は収まらないだろうな、とも思う。


そうやって、突っ込みどころの少ない、あるいは番組内で全てが完結するようなスキのない番組が生き残っていくのかと思うと、ちょっと寂しい。