勝間和代『断る力』vs角田光代『今、何してる?』 −リスクヘッジ対決!

以前、勝間和代氏のことを書いたが、なぜ彼女のことを書いたのかすっかり忘れていた。


11月、横浜国立大学勝間和代さんの講演会があります☆


(7月に事務の人に聞いただけで、まだ学内やネットに案内がないところを見ると、ひょっとしたら頓挫したのかもしれません。しょんぼり。)

→→■訂正&追記

11月10日(火)
14:40〜
横国、教育文化ホールにて
「女性キャリアパス講演会」

だそうです。





しかし、ネットで検索してみる限り、『断る力』は8:2くらいで支持されている。



「明日から、実践してみようと思いました。」
(断ることを断られないよう、お祈り申し上げます)
だとか、
「目からうろこが落ちる思いでした。」
(ほかにもいろいろ落としてないか!?)
などなど。


批判も、「言ってることは分かるが、それが出来るのってやっぱり有能な一部の人たちだけだよ。」というものが多い。

そうなんだよ。でもそれが問題。





言いたいことをまさに代弁してくれていたのがこの書評。

勝間和代『断る力』書評



ただ、世の中の現実を見た場合、おそらく9割方の人たちは「コモディティ」として一生を終えていくのであり、「スペシャリティ」は少数派だからこそ「スペシャリティ」でいられるのだと思う。そして言うまでもなく、「コモディティ」であることが不幸であるとも限らない。もちろん著者は、人は場面や相手によって「コモディティ」になったり「スペシャリティ」になったりすると書いているので(63頁)完全に二分化できるものではないが、それでもほとんどの人が人生の大部分において「コモディティ」としての役割を担っていることに変わりはない。


そう考えた時、この本は「スペシャリティ」の人たちに向けて「これからも共に頑張りましょう!」というメッセージを送っているか、または「コモディティ」の人たちに対して、「私たち『スペシャリティ』はこういう理由であなたたちに対して断る場合もあるけど、悪意からのことではないから理解して下さいね」というメッセージかのどちらかということになってしまうのではないか。世の中の隅々までシステムに取り込まれている現代において、「断る力」を発揮して「コモディティ」から抜け出しましょうと呼び掛けてみても、社会の多数派のコモディティにとっては空しく響くか、あるいはそれこそ勘違いして「むやみやたらと断る」誘惑にかられるのではないだろうか。


著者の仕事に対する向き合い方、知的探求心には非常に共感できるし、見習いたいとも思うが、いくぶんエリートの無邪気な上昇志向が本書には見られるような気もする。大衆運動の怖い点についても、まだ無頓着であるような印象を受けた。



雑読すんの書評コーナー「書海への旅 航海記録」
http://d.hatena.ne.jp/sunchan2004/20090404


働きもののアリばかり集めても働かないアリが出てくる、みたいに、
人間にも必ず一定数、ダメな人は居続けるわけで、それをただ搾取するだけの姿勢はどうなの?ということだ。


前回も言ったとおり、「断る力」が発揮できるのは、
断った仕事“以外の”仕事があって、
かつ、そこで結果を残せる人、だけ!である。

そんな恵まれた環境と、恵まれた才能がある人ばかりだったら、
こんなに生き辛い世の中ではないはずだよ!
みそこなったよ!
みんな!だまされちゃいけないよ!(遠い目)





世の中ネットであらゆるものが手に入るようになって、果ては彼氏や彼女、友人も手に入るようになった。しかしその弊害は、そうして手に入れた人とのコミュニケーションは簡単に代替できてしまう、ということである。

出会いのハードルが下がると、現在の人との関係を維持することよりも、新しい関係を作るほうが楽だ、という事態に陥る。


宮台真司が言うように、ネットの登場で人間のコミュニケーションは二重化した。その中で人は、「このコミュニティで上手くいかなくても、別の場所があるし」というポジティブシンキングをする。その様子は特に現在の大学生の間でも顕著だということは、シリーズ大学生協の第二回で書いた。高校や中学でも、学校生活を“生き抜く”ためには必要な力だろう。(そうしたポジティブシンキングは宇野常寛の言う「ゼロ年代の想像力」である。)


勝間氏はそうやって自分にとって有益なコミュニティだけを残していけば、生きやすくなる、そのコミュニティ選びを間違えないよう、ちゃんと断る力を使いなさい、と言っているのだ。





リスクヘッジとして、その考え方はとても有用に思える。
むしろそうやってテクノロジーの進化を利用するのが人間らしい生き方だ。



しかし、人間には、「選べない」コミュニティがほぼ確実に存在する。
家族は一体、どうするのだ。



いくら核家族化が推し進められたとはいえ、親の介護であったり、兄弟の犯罪だったり、切るに切れない関係は必ず人についてまわる。トレンディドラマや邦画の描くテーマがそうした「代替不能なコミュニティとの戦い」ばかりなのは、私たちの「そこから逃れたい」という欲望を忠実に再現している。もしこれから先、子供はすべて政府が中央管理し、家族という考え方をなくした個人主義化を進めます、というSF映画的展開にならない限り、家族の問題はずっとついて回る。



そうしたとき、コミュニケーションの代替ばかりに耽っていた人は、その「面倒さ」に耐えられるだろうか。
面倒で不要なコミュニティを断る力はぐんぐんと伸びてきたかもしれないが、不要なコミュニティを無理やりでも維持する、なんとか続ける、という我慢強さをなかなか持てないのではないだろうか。







そんなコミュニティの作り方、身の振り方について、小説家の角田光代氏が、勝間氏とは逆のアプローチを提示してくれている。私の「ふつう」と、あなたの「ふつう」が違う場合、どうするのか?


今、何してる? (朝日文庫)

今、何してる? (朝日文庫)


ずっと「ふつう」を目指してきた彼女は、恋愛や旅のエッセイを書いたり話したりしているうちに、自分の「ふつう」が、ひどく偏ったものであると気付く。「ふつう」が違うもの同士なんだから、「個人的な」恋愛のアドバイスが上手くいくはずがない。

だからいっそのこと、ひっくりかえしてしまおう。
みんな珍妙な恋愛癖なのだから、それがふつうなのだ。へんに偏った恋愛が、この世のまったきふつうなのである。


平均的な年齢でふつうの人に恋をし平均的なデート回数で接吻したりスキンシップをしたりしている人がもしいるとするなら、その人こそ、ものすごーいかわりものなのだ。


角田光代『今、何してる?』p15)


そうやって私と相手は違う、という認識を持つところまでは勝間、角田両者同じである。
しかしその先が違う。

私は初対面の人にチューなんかされたくないけれど、されたい人だっているわけだ。私はビールをつぎ足されたらうれしいけれど、勘弁してくれや、と思う人もいるはずだ。ああめんどうくさい。みんなが私とおんなじだったらどんなに楽か。革命も進歩も発展もないだろうが、平和であることはまちがいない。


私はもう、友達に恋愛の相談を持ちかけられたってアドバイスなんかしない。自分がされてうれしいことを人にしたりしない。自分がされて嫌なこともこわがらずに人にする。人の身になって考えたりなんかしない。今までしてきたそんないっさいをやめて、そのかわり私はただこう訊くことにする。


今、何してる? 何してんの? 何をしていますか?


(同 p17)


替えられないコミュニティに対峙しなければいけないとき、問われるのは自分の力であり、経験である。

どうしようもない時、自分がなんとかしなければいけないとき、もしそれに似たピンチを経験していたらどうか?
自分の「ふつうA」と違う、「ふつうB」とどうしてもコミュニケーションしなければいけないとき、「ふつうB+」の人と話したことがあったら、どうだろう?



角田氏が勧めているのはそうした「ケーススタディ」だ。


来るべきピンチ(代替不可能なコミュニティ)に備えて、少しでも多くの「ふつう」を学んでおくこと、知っておくこと、の方が、リスクヘッジとしては有効ではないだろうか。




勝間さんも「私はエスパーではないのだから」ということに気づいているのなら、やはり僕は「相手に訊く」べきだと思うし、
どうにも「断る力」は、相手とのコミュニケーションを有益/無益で図ってる気がしてならないんだよなぁ。
無意識の欲望に忠実になっていいのかい?と、自戒も込めて書いているのであった。