シリーズ「大学生協」 普通の大学生について

大学生協についての根の深い問題について、近代とポストモダンという視点から迫ってみる第二回目。(一回目はこちら


前回は大まかに、大学という教育マーケットの縮小と、その原因となった日本社会の「費用対効果重視」の価値観についてまとめた。それは、「集団」というものがだんだん成り立たなくなっている現状にも繋がる問題だった。(現在は集団よりサークル、コミュニティ、がコミュニケーションのベースである。)


今回はより具体的に、その事象を見ていきたい。




最近、横国生協でよく問題になるものの一つに、パソコンの売れ行きの悪さ、がある。新学期*1の、「大学生になったんだから、自分のパソコンくらい持ちましょうよ」という販売戦略もそろそろ通じなくなり、提案の方法をどうこうするだけでは解決しないレベルの問題が発生している。


なぜ売れないか、それは当たり前だが商品に魅力がないからだ。




家電量販店の安売りパソコンが市場に台頭し、5万円ちょっとで自分用のパソコンが手に入る時代に、20万円近くもする「生協公式PC」を選ぶ人は少ないと思う。仮に性能が良いものを求めていた場合も、量販店の物の方が同じ値段で良いものを買えたりする。やはり専門店は強い。


それに対する生協の武器は、商品以上の「付加価値」であった。「パワーポイントがついていて、学校の授業や発表・プレゼンテーションの場で使えます、スキルアップになります!」、「そうした便利なパソコンの使い方を教える講習会を開きます。生協で買った人限定!」「4年間保障で、トラブルや故障でも安心です!」、そうした「人」を介した提案・サービスがあるから、多少お金がかかってもウチのを買ったほうがいいですよ、という勧め方をしてきたわけだ。



しかし、ITスキルやその理解は(高校の授業「情報」でワードやエクセルまでやることもあって)年々高まっている。5年前はまだ「パソコンの電源ってどうやって切るの?コンセント抜くの?」という人も居たが、今はおそらく絶滅危惧種の動物くらい少ない。まして一家に一台以上パソコンがある時代、ググれば生協パソコン以外の選択肢が無限に広がるし、人に教えてもらうのが面倒な人はネットのパソコン講座を見ればいい。生協のウリが、時代の変化とテクノロジーの進歩に呑まれてしまったということだ。


つまり今、「大学生になったら、○○くらい」の、○○の位置に入るものが「パソコン」ではなくなる時代が来たということである。*2




話で聴いたところによると、その○○に入るものは、様々に変化してきたらしい。数十年前は「オーディオ機器」だったそうだ。「大学生になったら、高音質のスピーカーでワーグナーくらい聴くよね」といった価値観が支配的だったのだろう。アホみたいな話だが、実際に大学生は大きな大きなオーディオをそれなりの値段でみんな購入していたようだ。


あくまで予想だが、それ以前の○○は、「全24巻立ての百科事典」だったり、「テーブルマナー講習(フランス料理編)」だったりしたと思う。教養とテクノロジー両方を兼ね備えたものが、大学生の価値観形成に一役買っていたのだ。生協はその発案者として常に存在していた。


その役割を担っているパソコンと電子辞書が失墜した時(今)、次に来る○○は一体何だろうか。


iPodになるのか、デジカメになるのか(もう持ってるか)…。なんにせよそれを早急に模索すべき時期にきている。(自動車免許はずっと残っていると気がついた。しかしそれもやばそう。)




しかし、もっともっと根本的なところに問題があるのではないかと不安になる。


「大学生になったら、○○くらいするよね」という命令(というかプレッシャー)が、もはや機能しなくなっているのではないだろうか。「大学生ならみーんなやる」ことがどんどん少なくなっている気がする。麻雀、カラオケ、ゲーム大会、ゼミ合宿、バイトなどなど、ザ・大学生がやることといえばもっともっと出てくるかもしれない。しかし、重要なのはそれが選択肢の一つになってしまったということである。


今、麻雀をしていると、回りからも教授からも「××くん、大学生やってるね!」と言われる。自分たちでも「大学生やってるじゃん、俺たち!」と、自分たちの属性を外部から確認する視点がかならずある。今までは何も考えず「ただ、やる」ものだった行為が、「あえて、やる」ものになった。大学生なのに、「あえて大学生やってます」というねじれた状態が「普通」なのだ。そしてそれは、「大学生じゃない自分もある」ということと裏表である。


我々は、大学生でありながら、大学生でない他の自分もあるよ、と自分の中で区切りをつけて、コミュニケーションのあり方を複数持つことで、心の負担を和らげているのかもしれない。今はゼミモード大学生、夕方からはバイトモードの大学生、深夜は飲み会モードの大学生、しかしその実態は…、何なのだろう?


そうした分裂症的な生き方がもたらす弊害として、「俺はまだ本気出してないだけ」といった「本当の自分」を希求する陳腐な自分探しの罠が現れてくるのである。




そうやって価値観(モード)が多様化していくと、全員が一様に同じものを欲しがる、必要とする機会は徐々に失われていく。


前述のパソコンで言うと、ITスキルを熟知している人からパソコンに触れたことのない人まで、同時に大学に入ってくるということである。今まではそうした人たちの「間を取って」そこそこ知識のある人たちをターゲットにしていれば良かったが、今は「間」がいない。「ほとんど知っている」か、「全く知らない」、そのどちらかに属する新入生が大多数だ。事業体として生協がカバーしてきた「中間層」が今はごっそりいなくなっているのである。


かといって、そのターゲット層を「熟練者」と「初心者」の二つに分ければいい、という問題でもない。多様化した欲望にいちいち商品を合わせていたら生協はもたない。


サークルでアゲアゲモードの人と部屋でニコニコ動画を見て萌え燃えモードの人とボランティア活動で自分磨きモードの人、そうした使い分けに対応できるサービスなんてあるはずもない。パソコンはおろか、本の品揃えさえ考えないとまずい。


「大学生みんながやること」なんてもうない。「食べる」「飲む」「学ぶ」、それくらいシンプルな部分でしか、大学生の(消費における)共通点は見出せなくなっている。としたとき、カバーしきれない事業を「やめる」という選択は懸命だと思う。




「△△大学生」という身分が「着替え可能な属性」でしかなくなると、そうした身分に対する愛着も無くなる。その身分、集団で上手くいかなければ、また別の身分、集団での自分を作り上げていけばいいだけだ。特に都会ではそういったことがあまりにも簡単である。こっちのサークルが上手くいかなければこっち、それでもダメならバイトに精を出し、リスクヘッジとしてゼミを3つも取る、みたいな分裂が日常的に行われているが、じゃあそうした身分という服を着ている自分は誰なんだ、という問いにきちんと答えられるだろうか。自分は自信がない。


愛着がなくなり、「自分でなんとかしよう」と思える人がいなくなった集団は、解散する。集団は一人では維持できないので、数名以上の「なんとかしよう」がないと解散に歯止めをかけるのは難しい。


地方の過疎化に際して言われていた「地域の力の低下」という問題が、今は人の精神の領域で起こっているのかもしれない。(物理的なつながりが消えていったように、)精神的結びつきが過疎化する、ポストモダンとはそういう時代である。




「大学生になったんだから、○○するでしょ」という価値観を守る人と共に、「大学生はこうあるべき」という近代的な大学生像を守り続けていくか、「食べる」「飲む」「学ぶ」に特化した専門店的な福利厚生団体としてポストモダン時代を生き残るのか、どちらを選んでも未来はあまり明るくない気がする。


右に近代、左にポストモダンという底なし沼を見ながら、平均台の上を歩いているような生協が*3、どうやってこの暗中模索を終えるのか、考えれば考えるほど問題の根の深さばかりが際立ってくる。


横国の工学部店でエヴァンゲリオンウエハースがめちゃくちゃ売れた、ということがあったが、そうした「当たり」の商品提供がこれからも続くとは考えにくい。いい子である反面、賢い消費者としての訓練を積んできた世代が、大学生協で果たしてモノを買ってくれるだろうか。「生協ならではの付加価値を」と叫ぶだけでは解決にならない。



次回は生協の設立理念と、今の大学生の理念の大きなズレについて書く。

*1:新学期とは生協にとって稼ぎ時でもあり、「大学デビュー」をお手伝いしながら、良いものをより安くご用意いたしますの精神で、教科書や教材などの必需品以外にも様々なものを取り扱う。家電から自動車教習所からインターネットのプロバイダ契約まで、なんでも面倒見ますというのが生協の売りである。

*2:買い替えさせるという戦略を取るにもまだ早い。

*3:生協に限らず、現代人全てに共通する問題だと思う