モンスターハンターが売れたわけ


MONSTER HUNTERというゲームがよく売れている。特にプレイステーションポータブルで発売された2ndGは出荷累計350万本を達成し、おそらく今日本でもっともプレイされているゲームだと思う。


自身もそれにハマって200時間余りをプレイし、熱が引いてきたところだ。気がついたら1000時間を超えていた、というプレイヤーが多いモンハンにおいて、200時間はまだまだ序の口、ひよっこだろうが、このゲームがこれほどまでに売れたわけ、そして異常なプレイ時間を誇っているわけを少し分析してみたい。


モンスターハンター ポータブル 2nd G PSP the Best

モンスターハンター ポータブル 2nd G PSP the Best



モンスターハンターはその名のごとく、モンスターを狩るゲームである。自分よりもはるかに巨大なドラゴンや生物を、一人であるいは複数人で協力し、武器や罠を使って上手に追い込み、討伐するのが醍醐味だ。

自分の腕を磨き、何度も相手にやられながら戦法を考え、少しずつダメージを蓄積させていく。アイテムをフル活用して苦労に苦労を重ね、その巨体を倒したときの快感はひとしおである。

そして、倒したモンスターから剥ぎ取った素材を組み合わせ、自分の武器や防具を強化して、さらに次なるモンスターへ挑む、その繰り返しがモンスターハンターというゲームの幹だ。




しかし、それだけのゲームなら他にもたくさんあった。むしろゲームと名のつくものはほとんど全て、そうした「モンスターを倒す」ことの繰り返しを基本として作られてきたのではなかっただろうか。



としたとき、モンハンの持つ一つの重要な点に気がつく。
それは、「物語がない」ということだ。
「モンスターを倒す、それだけ。」であるということが、売れた要因なのではないだろうか。
モンハンには決定的に物語が欠けている。
あるのはモンスターが倒されるという「事件」の羅列だけだ。






テレビゲームが小説や映画と同じように物語性を持ち始めたのは、ファミリーコンピュータの発売前後、1983年あたりからだろうと思う。それ以前は、トランプや花札など、ゲームはあくまでルールを前提に人と人とが遊ぶためのものであったし、それがコンピューター上で行われることになっても構造は変わらなかった。


しかし、『ドンキーコング』や『スーパーマリオブラザーズ』から、『ドラゴンクエスト』をはじめ、プレイヤーが主人公に自分を重ねて楽しむゲームが登場してから、「ゲーム」は子供たちが必要とする「物語」になった。子供の遊び道具=消費するものとして、日本全土に広がっていったのである。


「マンガばっかり読んでないで勉強しなさい」という説教と同じレベルで、「ゲームばっかりしてないで勉強しなさい」という言葉が使われるようになったことからも、それが伺える。



ゲームを物語として消費する時代の真っ只中を自分も生きてきた。それがアクションゲームであれRPGであれ、「悪をこらしめる」「平和を取り戻す」「秘宝を手に入れる」「姫を助ける」などといったビルディングスロマンを体験できるものとして、テレビゲームは立派にマンガや小説の代わりになった。もちろんゲームだけが成長の糧となったわけではないが、子供が物語を読む上での選択肢の一つとして、大きな役割を果たしてきたと言えよう。


同様に、『ファミ通』などのゲーム雑誌でも、テレビゲームを語る際に「ゲーム性」という言葉が登場するようになった。「話はいいけど、ゲーム性はイマイチ。」「操作性はいいんだけど、主人公が気に食わないなー…。」などというように、ゲームには物語的側面とシステム的側面の二つが日常的に認識されていたし、今でもそうして使い分けられている。





我々は物語を通じて、自分の知らない世界を体験し、現実ではできないことを実現する。 物語という時間の流れの中で、様々なことを経験して成長する。


ゲームにおけるその物語のメインテーマは「悪を倒し、世界を救う」というシンプルなものだった。もちろん例外もあるだろうが、インベーダーゲームですら、「侵略者から世界を救う」という物語を持っている。主人公の抱える事情が違ったり、サイドストーリーが挿入されたり、ゲームによって細部は様々だが、それは些細なことである。


はじめ、主人公はザコ敵一匹倒すのに苦労するくらい弱々しいが、経験を積むうちに次第に成長し、能力が上昇する。レベルアップによるステータス向上、これは子供である自分たちの身体的成長という夢を実現してくれる。魔法が使えるようになるのもその一つだ。


そしてそれと同じように重要なのは、主人公が精神的に成長していくことである。町を一つ救うたびに、悪を一つ懲らしめるたびに、そこにある教訓を主人公は一つずつ学び大人になっていく。そしてラスボスではそうした成長を支えてくれた人々の思い出とともに悪を討つのである。


そんな二つの成長を、ゲームの中の物語はもたらしてくれていた。





また、それは、「主人公が正義であり、ラスボスが悪である。」という大きな前提に支えられていた。主人公が倒す魔物は「ラスボスの魔力によって正気を失った」人や動物たちであり、「騙されたり、欲に目がくらんで悪に魂を売った」手先たちである。*1


少年漫画誌でも、同じような前提で物語は繰り広げられる。
それは、高度経済成長で「貧困」という悪に打ち勝とうと努力を続けてきた日本という国の大きな物語を、子供たちに伝えていこうという教育の一環であった。物語を通して成長を促すという手段がもてはやされ、今も続いている。




しかし、次第にそうした勧善懲悪の物語は支配的でなくなってきた。「悪は悪じゃなかったかもしれない」といった反省や、「そもそも悪を倒してきた自分が悪だったかもしれない」という自己懐疑の念が、沸きあがってきたのである。

それは2001年アメリカの9.11テロによるものか、それに先駆けた何かがあったかどうかは分からないが、「正義って何?」という問いが日常的に登場するようになったのは事実だ。


それに呼応するように、ゲームも変化を見せる。
そうした変化の一つの到達点として、2006年に日本ゲーム大賞優秀賞となった『ワンダと巨像』を挙げたい。


ワンダと巨像 PlayStation 2 the Best

ワンダと巨像 PlayStation 2 the Best


ゲームを始めると、主人公のワンダが眠った女の子を抱えてある神殿に入っていくムービーが流れる。そして祭壇に女の子を置いたところで、プレイヤーは操作可能になる。ワンダが剣を掲げると光が一直線にある方向を指す。そこに「巨像」と呼ばれるボスがいるのだ。そこへ赴き、巨像を倒し、また神殿に戻る。そうすると次の巨像の場所が示され、またプレイヤーは巨像を倒しに赴くのである。


プレイヤーはなんだか分からないまま、その「巨像狩り」を16回繰り返す。そして16体目の巨像が倒されたとき、その行為が持つ意味が明らかになる。ワンダ=プレイヤーが行っていた行為は、女の子を蘇らせるために自らが悪魔に魂を売ることであったのだ。巨像を倒すのはその儀式だった。主人公が行ってきたことは果たして正しいことだったのかどうか、疑問のままにゲームは終わる。




ワンダはレベルアップしない。武器も強くならないし、会話やイベントがないので精神的に成長したかどうかも分からない。そしてワンダは最後に赤ん坊になる。すなわち主人公は「成長する」のではなく「元に戻る」。
それまでゲームが作り上げてきたビルディングスロマンという物語とはまったく違うゲーム、それが『ワンダと巨像』であった。そしてそんなゲームが売れる、賞を獲るということは、ゲームに求められる要素が大きく変わったことを示している。





そして、モンスターハンターである。
モンハンはその構造からして『ワンダと巨像』に酷似している。モンハンはワンダが確立したゲーム性をそのままに、それをひたすら繰り返せるよう作られた新時代のゲームだ。*2


モンスター討伐は「クエスト」としてハンターに受注され、そのモンスターによって困っている人たちから一応「報酬」が支払われるという構造になっている。「最近、山に竜が出て、怖くて山菜取りができない」という人のお願いで、竜を倒しにいくわけだが、プレイヤーの中でそんなストーリー設定を頭に入れながらモンスターを狩っている人は一体どのくらいいるだろうか(きっとほとんどいない)。見るのは「クエスト成功条件:リオレウス一頭の討伐」という条件のみで、頭の中は竜を倒したときに剥ぎ取れるアイテムや報酬のことで一杯だ。


ハンターたちにはどうも、村や街を救うといった使命感があるようには見えない。プレイヤーとしてもそんなものは二の次である。興味があるのは「強くなること」「新しい武器をつくること」。結果的に村が救われても、「村の工房が大きくなって、作れる武器が増えました!」や「取り扱うアイテムの種類が増えました!」といったことが嬉しいくらいで、物語的な達成感はない。また、そこに精神的な成長、成熟は存在しない。


「モンスターが『悪』で、それを一掃して世界を救っているんだ。」という気概もない。





「あやつは、人々の邪悪な心が作り出したのじゃ。」
そんな言葉が、物語(がある頃のゲーム)にはたびたび登場した。「悪」はその一端を人間が握っており、責任もある。それを自覚することが成長であり、自覚させるのが物語の目的だった。そして、そうした「悪」を許容できるようになること、悪が発生してもうまくやっていくことが、「勧善懲悪」の物語を通じて我々が学ぶことだったと思う。精神的に成長するとはそういうことだ。


しかし、モンハンのモンスターは「人々の邪悪な心が作り出した」ものではない。「なぜだか分からないが森の中にいる」ものである。村に迷惑をかけているが、彼らに「悪気」があるようには見えない。彼らは「悪」かどうか分からない極めて微妙なものなのである。言い換えればそれは、「リスク」と呼べるかもしれない。






「襲われる可能性がゼロではない」、そういった状況にいる時、人はストレスを感じる。我々が今の日常生活で感じているストレスはそうした「リスク」に起因するものがとても多い。モンハンの世界は我々の今の社会とそっくりなのである。



そんなストレスから解放されるためにはどうすればいいか?
リスクの元を絶てばいい。



痴漢しそうな人がいたら殺し、家の前に駐車違反しそうな車が来たら爆破する。元が消えれば余計な気遣いをしなくて済む。しかしそんなことは、できない。せいぜい、痴漢しそうな人とは違う車両に乗るとか、家の前にコーンを立てるとか、その程度だ。現実社会では、リスクを回避することはできても、それから解放されることはない。


としたとき、そんな「リスクの元を絶つ」ことができてしまうのが、モンハンの世界なのである。村を「襲いそう」なモンスターを、こちらから相手の住処に乗り込んでいって討伐する。逃げ回っても最後は巣に追い詰めて根絶やしにする。モンハンは、そうしたリスクの根絶やしを繰り返すゲームなのである。


そこには、「モンスターと共生する」という選択肢はない。「ハンターたちは、モンスターと一緒に生きていくことにしました。めでたしめでたし。」ということは、ありえない。






モンハンを始めた時、「なにも巣まで追いかけていかなくても…」と思ったが、尻尾を切り落として撃退しただけではクエストは終わらなかった。リスクは根絶するものなのだ。



また、物語のないゲームが登場したことは、ケータイ小説の登場と同じ問題ではないかと思う。

社会学宮台真司ケータイ小説の分析を引用する。

僕が関係性の「短絡化」現象に気付いたのは一九八八年のことです。僕は美容室でインターンの女の子たちと少女漫画の話をする習慣がありましたが、八八年頃から「少女マンガが難しくて分からない」という女の子たちが目立ちはじめます。当初、僕はとても驚いたという記憶があります。


少女マンガは、「分からない」と言われてしまうと、魅力を説明しようがないところがあります。それで途方にくれたことを覚えています。それから数えて二〇年近く経ちますが、当時の僕が体験した現象を、文芸界に古くからいる人々が「ケータイ小説」現象として体験しているのだろうと思います。


宮台真司『日本の難点』p27


日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

この文脈でいう「ケータイ小説現象」と同じように、モンハン現象は起きている。


複雑に絡み合ったストーリーとか、善悪を問う物語は「分からない」人たちが増え、短絡的にただモンスターを倒すこのゲームが売れている。モバゲーやGREEなどケータイ向けのゲームサービスが会員数を伸ばしているのも、ここに起因すると思う。それら短絡的なゲームは、物語抜きの「事件の羅列」だ。



普段我々が実現できない、「リスクの根絶を擬似的に体験できるつくり」と、「物語のない軽さ」が、このゲームが売れているミソである。





よく分からないものをよく分からないままに許容しておく力、それを身に着けることが大人になることの一要素だと僕は思う。そしてその力は、メディアは何であれ、やはり物語を通して我々が学ぶものだ。


しかし、現実世界における「よく分からないもの」は日々増え続け、もはや受け入れられないくらいの量に達している。そんな生き辛さから逃れる一つの方法として、モンハンはこれほどまでに希求されているのかもしれない。


「クエスト:現実」はだいぶ難しい。

*1:悪を倒すという大義のために、主人公は民家の引き出しを開けて金を持ち出してもいいし、使えるものは何でも使えばいい。それに対するアンチとして『moon』というゲームが登場したが、あまり売れた記憶はない。

*2:ワンダと巨像』にはかろうじて物語性があった。「自分が間違っていたかもしれない。」とプレイヤーを揺さぶる構造は、「悪はそもそも自分の中にある」といったスティーブン・キングの小説のようなオチを持っている。宮部みゆきが好きなのも「まさに」だ。