シリーズ「大学生協」 努力しない努力

ちょっと致命的に大学生協がやばいかもしれない。そんな不安は「大学」の地位の下降とともにずっと叫ばれ続けてきたことかもしれないが、いよいよその組織的意義がほとんどなくなってしまうXデーが、近くまで来ている気がする。





中産階級は「教育」というものに期待して、何よりもそこにお金を注いできた。そこには、大事な子供をとことん愛するという「豊かさ」の象徴的意味合いのみが見られがちだが、それだけではない。そこには親の、リターンが大きいだろう、必ず自分に帰ってくる、といった投資的意味合いが一方で確実に存在していた。中でも大学はその出口として、それまでの資金注入を無駄にしないために、あるいは一発逆転を狙うために、最後の高額投資が行われる巨大なマーケットであった。


しかし、「果ては博士か大臣か」「勉強して、いい大学に入れば、一生安泰」という言説が信じられていた時代は終わり、安定した就職への道はおろか、満足いく教育を受けられる環境すら失われつつあるのが現在の大学だ。一発逆転はあるかもしれないが、それは大学への投資による見返りではなく、本人の資質や運による。


勉強が出来ても(=大学を出ても)稼げない、のであれば、わが子をプロゴルファー目指して英才教育する方がマシかもしれない、と考える親が出てくるのも頷ける。子供を大学に通わせることが、大きなリスクをはらむ時代になったのだ。


同時に、マーケットとしての「大学」も価値を失いつつある。大学生活の福利厚生整備から、教科書や勉強道具の販売、学内学外活動の場の提供と、様々にそのマーケットを仕切ってきた大学生協にも、ダメージが少ないわけがない。



その中で、生協が生き残る道を模索する意味でも、現在の大学、及び大学生協の問題点を整理してみたい。





まずその直接的な原因として、叫ばれ続けている大学生の学力低下問題がある。自分も含めて大学生はバカばかりである。開き直るわけでもなくただただ申し訳ない気持でいっぱいだ。だが努力もできない。なぜできないか、それは「勉強することの費用対効果が不明瞭」だからだ。「こんなこと勉強して何になるの?」という問いが心の底から発せられる人間に、我々はなってしまったのである。


そんな我々の心を、現役大学教授の内田樹が分かりやすく分析してくれている。氏のblogから引用する。


いささか先走ったが、子どもたちの学力が低下した理由は「この世でたいせつなものは『学力そのもの』ではなく、『学力をもつことでもたらされる利益』である」という考え方が支配的になったからである。


学力なんかあってもなくてもどうでもよろしい。
学力があることによって得られるとされている利益(競争における相対優位、威信、権力、財貨、情報、などなど)が得られるなら「何をしてもよい」というのが私たちの時代の風儀である。


子どもたちは「いかに少ない努力で多くの報酬を手に入れるか」ということにその知力の限りを尽くしている。
これはまさしく過去30年間本邦の教育行政がたかだかと掲げてきた教育理念である。


パフォーマンスとして多少大げさに言っているようにも思えるが、まさしく今の大学生が持つ「価値観」を明確に表してくれている。

「ぜんぜん勉強しないで東大出ちゃいました」というのは、キーボードをちゃかちゃか叩いただけで1分間で数億円稼いだとか、1000円でベンツを買ったとか、それに類する「スーパー・クレバーな商品取引」なのである。
消費者マインドに立てばそういうことになる。


「学校なんかぜんぜん行ってねっすよ」「教科書なんか開いたことない」「試験なんか、ぜんぶ一夜漬けで、あとカンニング」というような言葉が「ほとんど誇らしげ」に口にされるのは学校教育で競われているのが「何を学んだか」ではなく「いかに効率よく競争に勝つか」だと彼ら自身が信じているからである。


「いや、自分はそうじゃない、費用対効果のないものにこそ真の価値があって、学びとはそうした俗っぽいものとは遠く離れたところにあるんだ。」と理念を掲げる人は少なからずいると思う。だが、価値観とはみんなで決めるもので、その「みんな」が、消費者としての賢さ、「うまいことやったかどうか」を重視している以上、主張はただの信条になる。



『東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?』という本がある。内容は「東大あるある」から始まる学歴ノンフィクション話から、少しずつ「一応、」という譲歩が生まれる心理を分析している。この「一応、」にも、「少ない努力で東大ブランドを手に入れてしまいました」という、ある種の後ろめたさが込められていると思う。


東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?

東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?


その点、横浜国立大学は学力的に「中途半端」という悲惨さがある故に、少し救われている。「一応、」と言うには知名度やレベルに難があるし、かといって努力せずに入学するほどの天才もいない。「1.5流大学」と名乗ろうにも(旧帝じゃないし…)という自責の念がやってくるし、「2流大学」と言うには(でも努力して入ったんだよ)という小さなプライドが邪魔をする。そんな中途半端さを正当化するために、「俺は学問をやるためにこの大学に来たんだ!」と「学力そのもの(教養)」を妄信する人が一定数いるのである。(入る前(受験偏差値)では圧倒的に勝っていた私立大学群とも、出口(就職)で負けてしまうのは、そのためかもしれない。)





そしてそうした価値観のさらなる問題点は、集団への関心が無くなっていくことである。


費用対効果を上げるためには二つの方法がある。一つは、とにかく高い成果を上げることだ。かける費用が同じでも、昨日より今日、今日より明日と成果が上がり続ければ、欲求は満たされる。だが残念なことに、成果には上限がある場合が多い。とした時、もう一つの方法が浮かび上がってくる。それは、成果を出すために使うリソースを少なくすること、だ。5人で100のことができた、じゃあ次は4人で、そして3人で、と減らしていけば、費用一人当たりの効果はどんどん上げていくことができる。すなわち、前述のような価値観の中では、人は孤立していく方が良いのである。



インターネットという個人的なメディアの普及も手伝って、大学生の孤立、ひきこもり化はとどまるところを知らない。自大学でも、「大学生の不登校」問題が保護者会で話し合われているようだ。とした時、集団としての「大学」への関心は(彼らが大学生であるにも関わらず)失われていくということになる。大学に誇りを持つとか持たないとか以前に、「自分が所属する大学」と「(所属しない)対象としての大学」の二種類が我々の頭の中に存在するようになるのである。


そして我々の関心が向かうのは、「横国に入って得られた(自分個人の)恩恵」であり、「横浜国立大学そのもの」ではない。「横国に入っていたお陰で就職試験、足きりに合わないで助かるわ」と言いつつ「ヨココク就職率悪すぎワロタwww」といったように笑う、そんな分裂した視点で大学を見ている人は多いと思う。



こうして失われた集団への関心(リビドー)は、「大学」から回収されると同時に「大学生協」からも回収される。大学と違い、リビドーがそもそもの設立趣意となっている生協において、これは由々しき事態である。


次回はそんなリビドーの流れの対比と、そこから生まれる問題点について書いてみたい。