村上春樹『1Q84』、父になることを受け入れた人たちのためのファンタジー。

1Q84を読みきった。思っていたよりもずっと面白く、ページを繰るのが止まらなかった。「文学してるでしょー」という嫌味のような態度も、「やれやれ」という世俗的なものに対する嘲笑も少なかったように思う。


それまで『ノルウェイの森』しか読んだことがなく、かつ村上春樹に対する批判的な論ばかりに触れていたので、「ハルキスト(村上春樹の作品を偏向する人)=ナルシスト」のような一方的な偏見で彼の文学を見ていた。彼らは大衆音楽や大衆映画に「やれやれ」と言い、ジャズやクラシックに囲まれながら、いわゆるハイカルチャーを消費してステータスの高い人生を送っていくのだ、と。教養のある自分の世界へワインとともに酔いしれていく、そんな人たちに対する蔑視的な呼称だと思っていた。



しかし、1Q84の面白さに巻かれて『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の三部作を読んだのだが、前述の図式は間違いだと気付いた。ナルシストの定義自体があやしいものだったが、それは置いておいたとしても、彼らは十分に外部への興味を持っているだろうと思うに至った。きっとコミュニケーション能力の高い、成熟した大人なのではないか、そう考えた。(ナルシストなのはむしろ村上春樹批判派なのではないだろうか。)


1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1



1Q84』、『羊をめぐる冒険』は、大雑把に言って「主人公が父殺しを代行してもらう話」である。主人公は別の世界にいながらにして、誰かを動かし、そして父を殺させる、そういう構造が二つの物語に共通している。


その前に、父殺しとは何かについて書いておく。


ギリシャ悲劇に「オイディプス」という作品がある。
ある王国に子供が生まれるのだが、預言者は「その子供はやがて王を殺すでしょう」と告げる。それを恐れた王(父)は息子を(殺すのは思いとどまりつつ)山中に捨てるよう従者に命じる。生き延びたその子供はオイディプスと名を授かり、旅に出る。その最中、橋で向かい側から来た男と言い争いになり、馬を殺された仕返しに相手を殺してしまう。(この時点では、オイディプスはまだ殺した相手を父だと知らない。)そして、とある王国にたどり着いたオイディプスは、その国の危機を救って英雄となり、王として女王と結ばれるのである。だがその後、彼は自分が以前殺した男が父であり、そして結ばれたのが母であったことを知り、絶望し、両目を潰してしまう。


以上が「オイディプス」の物語である。フロイトによると、この物語は人間の根源的な欲望を表しており、それゆえ我々はこうした構造を持つ物語に強く惹かれるのだという。その根源的な欲望とは何か?それは、幼少期の子供が持つ「父を殺して、母と交わりたい」というものだ。


この「父を殺して、母と交わる」構造は、実に様々な作品に見られる。それはどこまでも暗喩的である場合が多いが、『カラマーゾフの兄弟』から『ドラゴンボール』まで、幅広く通底している。


主人公はなにもせずプラプラしている。するとそこに何かの競技用のボールが転がってくる。(サッカーボールでもバレーボールでも野球でも卓球でもなんでもいい。竹刀ですらいい。)主人公は怪訝に思いながらもそれに触れてみる。すると、みるみるうちに自分の中になにやらとてつもない衝動が生まれてくる。「君はその競技をするために生まれてきたのかもしれない」と、その競技についてよく知っている人物が主人公に対して言う。案の定、天才的な才能を発揮する主人公は成長を続け、1回戦、2回戦と勝ち上がっていく。そして決勝戦、最初の頃の自分では到底敵わない強敵と接戦しながら、劇的な勝利を迎えるのである。そして次回、「まだ見ぬ強豪が…」。


こうした構造でもって、次々と「父」が出てくる物語は量産されてきた。少年漫画を思い返せば必ず一つくらいは思い至るだろう。(「母と交わる」は省かれているかもしれない。)こうした物語が、読者の欲望をファンタジーとして実現する形で、脈々と続いてきたのである。(そしてそれを支えていたのは、経済的成長や社会的成熟という20世紀的な発展モデルだった。)




村上春樹に戻ろう。『1Q84』、『羊をめぐる冒険』にも、そうした「父」は登場する。前者における「ビッグ・ブラザー」であり、後者における「羊」だ。彼らはその出自こそ平凡であれ、主人公の居る世界では、日本という国を牛耳る裏社会の支配者として君臨している。そしてもちろん、物語である以上、主人公の「僕」はそれに立ち向かうことになる。


しかし、「僕」はと言えば、酒を飲んだりタバコを吸ってばかりで(しかもそれをわざわざ言うところが子供っぽい)、肝心な行動をほとんど起こさない。孫悟空大空翼とは大違いだ。本を読んだり、旅をしたり、セックスもするが、そこに生殖活動の切迫感はまるで見られない。
そんな彼の変わりに、『1Q84』では青豆が、『羊をめぐる冒険』では鼠が、「父」へと立ち向かうのである。「僕」は重要なポジションにいるものの、「父殺し」は鏡の向こう側の世界で行われており、ただ見届けるしかない。


なぜそれほどまでに「僕」が「父殺し」を嫌悪するのか?それは、父を殺した瞬間、自分がその父の居た座につき、「父」になってしまうからである。「父になるということは、強大な権力を持つ代わりに、後に必ず殺されることも受け入れるということだ」といったようなことを、『1Q84』のビッグ・ブラザーが青豆に対して言っている。


父殺しが代行されること、それはつまり「自分が代わりの父にならずに済む」ということであり、また「子供(未成熟)でいられる」ということだ。そうした村上春樹的ファンタジーが、現実世界で「父になること」を受け入れた人たちにとって、心地よさをもたらしてくれるのである。「父にならなきゃいけないけど、もしならなくてもいい人生があったら、こんなのだろうなぁ…。」と言って、叶わぬ夢に思いを馳せさせてくれるのである。




人間は、自分の一番「叶えたい」欲望を「叶えない」ように無意識によって統御されている、とフロイトは言っている。もしその一番の欲望が叶いそうになったとき、我々の無意識は何か別の小さな欲望を叶えて満足したり、叶わないように意味の無い失敗を繰り返させたりする。そういうことは現実によくある。


現実世界で「父親を殺して母親と交わりたいという考えを人間は根源的に持っているんだ」、と主張すると少し(むしろかなり)オカルトチックであるし、眉唾ものだ。男性主義的だとフェミニストに批判されてきたのもこの点を前面に押し出してきたからだと思う。しかし、我々が求める「物語」が、構造的にそうした「父殺し」を行ってくれている様子を見ると、逆説的にフロイトの言っていることは正しいとも思えてくる。


人間の日常生活で「父殺し」はどういった形で行われるのだろうか。父が死んだ時か、それとも父よりも出世した時か、稼ぎが上回った時か、かけっこで勝った時か、いつかは分からない。それでも、どこかでそのタイミングは必ずやってくるのである。
また、「父殺し」は行われなくても、自分に子供が生まれたときは否応なしに「父」という役割を引き受けなくてはならない。(その重みを若干でも回避するために「パパ」なんて呼ばせるのかもしれない。)そうした時、村上春樹のようなファンタジーは「父でない自分」というもう一つの可能性を提供して、父になることのプレッシャーをやわらげてくれるのである。


ハルキストと呼ばれる人は、そうした重みを受け入れる準備が整った人たちのことではないか、それが読後に考え出した結論である。




逆に、村上春樹の「僕」のような態度が気に食わない人はとにかくたくさんいると思う。自身もまだ受け入れられたかどうか分からないし、「やれやれ」という語句は鼻につく。別にいいじゃないか、クイーンやアバを好きでいたって。
しかし、この嫌悪感が嫉妬心から来るものではないかと推測もできる。すなわち、「僕」のような未成熟さ、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のような幼さで生きていくことをよしとされている世界、に対する憧れが、嫉妬の炎を燃やしているのかもしれない。漫然とした憧れなのか、差し迫った抵抗なのかはケースバイケースだろうが、論壇の多くで批判が繰り広げられる理由の一つには挙げられるだろう。



21世紀、アメリカという父が緩慢に死んでいくのを見ながら、我々は少しずつ「父になること、父でいること」の負の面、凋落の恐怖を感じてきたと思う。特に日本人は。権力を持つことが必ずしも良い面ばかりではない、ということを知った我々が、それでも権力を持たなければならなくなった時の緩衝材として、村上春樹文学はこれからも世界で必要とされていくと思う。